商品コード:1266-015n[OPUS] L.ライテ指揮スロバキアpo. / モーツァルト:交響曲36番K.425「リンツ」, 交響曲31番K.297「パリ」
商品コード: 1266-015n
商品詳細:1970年代に入ると英・仏・独のオーケストラの圧倒的優位性は小さくなり、欧州中のオケは向上し均質化していった。これは1973年の録音、まだ1つの国だった時のスロバキアpo.、チェコ・フィルとは異なる、もう少し陽性の表情を持っているようだ。オケの向上は、そのまま協奏曲・室内楽等の向上にも繋がっていく。モーツァルトこそ小規模ローカルオケが、その存在感を示せる大切な曲。東欧らしさを失っていない複雑な色合いを持つ。指揮者ルドヴィート・ライテ(1906-,2000.)はドイツ系ハンガリー人の両親の元、オランダに生まれた。一家は南ドイツ、ハンガリーと引っ越し、スロバキアのブラチスラヴァに落ち着く。父親のラヨシュも指揮者でウィーンで、クレメンス・クラウス(指揮)、アレクサンダー・ヴンデラー(管弦楽指揮)に師事。当時、父はクレメンス クラウスのアシスタントを1933 年まで務めていた。ルドヴィート・ライテはウィーンで学んだ後、1929 年にリスト フェレンツ ゼネムヴェセティ フォイスコラに移り、エルンスト フォン ドホナーニに師事。1935年、ブダペストのハンガリー放送管弦楽団の初代指揮者に就任。彼はこの活動を 1945 年まで続けた。また、ブダペストの音楽アカデミーの教授も務める。この間、ライテは主要な外国のオーケストラから数多くの招待を受けている。ベーラ・バルトークとゾルタン・コダーイの数多くの作品が、彼の指揮の下で初演された。1946年、ライテはチェコスロバキアに戻り、1949年までブラチスラヴァのチェコスロバキア放送管弦楽団のチーフとして働いた(1961年まで)。1949年、ヴァーツラフ・ターリヒと共にスロバキア・フィルハーモニー管弦楽団の創設者となり、後に最初の指揮者となった。スターリン時代に(1950年代の初め)、当時の共産党支配者にとってライテは十分に政治的利用できる指揮ではなく、彼がスロバキア・フィルハーモニー管弦楽団の首席に任命されたのは、1953年(スターリンの死後)になってからである。1968年、彼はチェコスロバキア放送o.に戻り、1976年に首席指揮者として引退するまで務めた。録音は少ないが実力のある指揮者である。国際的な名声を得ることなく2000年にブラチスラヴァで亡くなった。ライテのスタイルはオケをとことん鳴らしこむバリバリのスタイルではない。静かに、しかし快活に自然な音楽を奏でることに専念した指揮者である。
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