[DECCA] M.ロストロポーヴィチ(vc) B.ブリテン指揮ニューフィルハーモニアo./イギリス室内o. / ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエムOp.20, チェロ交響曲Op.68
商品コード: 1304-053
商品詳細:A面の鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)Op.20は、日本政府の委嘱により、皇紀2600年祝典曲として「皇紀2600年(1940年)奉祝曲」の名前で作曲されたが、宗教的理由から、政府より却下された経緯がある。大筋ではその通説は当たっているが、実際にはブリテンの個人事情などが複雑に絡み合っているらしい。ブリテンの回想では、委嘱条件は「1939年9月頃に『交響的作品ならば580ポンド(≒1万円(当時))、序曲や行進曲なら、その半分から3分の1の委嘱料を支払う。1940年5月までに東京に送れ」というものだったようである。承諾後はマイペースで作曲していたものの、1940年3月21日になり、日本側から作品の内容に関する問い合わせがあり、ブリテンはそれに返事をする一方、「馬鹿に完成を急がされている」とも語っている。また、その最中のインタビューで「曲の名前は『シンフォニア・ダ・レクイエム』というものになる。ただ、それはあくまで名前だけ。そして、両親の思い出に捧げようと思っている」と述べたが、何人かの友人が「その題名は日本政府を誤解させる可能性がある」と忠告してきている。1940年6月頃に作品が完成し送付、ブリテンは約束どおり日本側から委嘱料を受け取ったが、なぜか一桁多い額が送付されたらしく、それに気をよくしたかブリテンは9月頃に来日する気にもなっていた。ところが11月になり在英日本国大使館から「演奏拒否」の知らせが届き、一時は寝込むほどに気を落としたが、後にホークスに「たくさんのお金を貰って、それを全部使っちゃっただけの話さ」とも言っている。 ブリテンは別の回想で「期限まで時間がなかったので、別の目的ですでに出来上がっていたあの作品(=「シンフォニア・ダ・レクイエム」)を送るしかなかった」と述べている。送られた側の日本では、通説どおりの論争が起き、「英霊に対する鎮魂」などとこじつけようとする動きもあり、「折を見て演奏する」ことになったものの、太平洋戦争開戦もあって結局沙汰止みになってしまった。 曲の練習は皇紀2600年の式典に備えて30回ほど行ったものの曲調に対してオーケストラの編成が過大で音を合わせることすら困難だったので、仮に演奏することが決定したとしても本番での演奏は見送られた可能性が高いと言われている。結局、初演は1941年バルビローリ/ニューヨークフィルで、アメリカで行われた。日本では1956年ブリテン自身の指揮で、NHKso.で日本初演された。レクイエムの名があるが、唄は入らない。最古の録音は1956年ベンジャミン・ブリテン/南西ドイツ放送交響楽団で行われた。LPがあるか不明。2019年までに全19種の録音が存在する。因縁深い曲だけに興味のある方はこのLPで!チェロ交響曲は、正式な題名は『チェロと管弦楽のための交響曲』。ロストロポーヴィチに献呈され、彼とモスクワpo.によって、ロシアで1964年初演が行われた。実質的にチェロ協奏曲である。「交響曲」の名称は、伝統的な協奏曲の定石に比べて、独奏楽器とオーケストラが互角に渡り合うことに因んでいる。また以下のように、3楽章制でなく4楽章制を採るところも交響曲風だが、最後の2楽章はチェロのカデンツァによって結合されている。こちらも自作自演!録音は2曲とも1964年に行われ、それぞれ別々の番号でリリースされた。これはカップリング替えLP。
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