当ページでは商品解説の際に経歴説明が重複していたり、
あるいは煩雑になってしまう人物について、
指揮者を中心として解説いたします。

下記の項目の中から、
調べたい人物名をクリックしてください。



Franz Konwitschny (1901-1962)

【主な活動レーベル】
ETERNA

【経歴について】
現チェコ共和国の東部、モラヴィア生まれ。
元々はヴァイオリン専攻でライプツィヒ音楽院に在学していて、
フルトヴェングラー時代の ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ヴィオラ奏者として音楽活動を開始した。

同楽団での偉大な指揮者との出会いが演奏者からの転向を選ばせたのか、
1927年の シュトゥットガルト国立歌劇場 練習指揮者を経て、
1930年には同歌劇場の首席指揮者に就任する。
そして1949年よりゲヴァントハウス管弦楽団に、
常任指揮者として舞い戻ったのである。

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、
250年を超える歴史を持つ世界初の平民階級オーケストラである。
楽長/常任指揮者は『ゲヴァントハウス・カペルマイスター』と尊称され、
歴代のカペルマイスターにはフェリークス・メンデルスゾーン、
アルトゥール・ニキシュ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーらが名を連ねる。

コンヴィチュニーは第二次大戦でボロボロになった同楽団の復興に尽力するなど
没年の1962年までカペルマイスターの職を全うし、
ゲヴァントハウス管弦楽団を世界有数の優れた管弦楽団に育てあげた。

同楽団と 東独ETERNA レーベルを語る上で
コンヴィチュニーが絶対に名前を外せない人物なのは間違いないが、
やはり特筆すべき業績は1958年から1961年にかけてライプツィヒで録音された、
世界に誇るベートーヴェンの交響曲全集だろう。

「聴けば判る」と言えるほどの名録音で幾度もプレスされたが、
東側ではステレオ・レコードの発売開始が西側より10年近く遅れたため、
プレスの変遷と相まって判別が困難になってしまった。
超高音質を誇りETERNAの顔とも言えるV字ステレオ盤、
日本では人気が低いため安価だが圧倒的な音質を持つモノラル盤、
再プレス時のレーベル違いにジャケット違いetc...

屋号を見ていただければお分かりいただけると思うが、
弊社エテルナトレーディングは全容を解明している。
音質と予算とのバランスを考慮した提案が可能なので、
いつでも御相談いただきたい。

【演奏スタイル/特徴】
コンヴィチュニーほど聴き手に媚びない指揮者も珍しい。
聴衆がいてもいなくても関係なしといった風情の、
虚飾が一切ないスタイルである。

フルトヴェングラー好きが聴けば、最初は地味な印象を受けるだろう。
無駄な音を出さず、少ない音の中で最大限の表現をするからだ。
むしろ表現を『しない』指揮者というべきか。
贅肉がそぎ落とされた引き締まった演奏、とでも書けば簡単だが、
しかし実に味わいが深い。

そして、機を見れば脇目も振らず直線的に猪突猛進と言える程に突進していく。
ブルトーザーの如く全てをなぎ倒して激震する怒涛の演奏に繋がっていくのである。
周りや後ろを振り返らず、前だけを見据えてマイペースで突き進む。

この無作為こそがコンヴィチュニーの特徴で、
このぶっきらぼうな渋い音でソッポを向かれると、とことん追いかけたくなる。
ところがいくら追いかけても後姿しか見せないのがコンヴィチュニー。
いつ聴いても全てを見ることができない、だから何度でも聴くことができる。
この奥深さこそが彼の最大の美点なのである。

余談だが「コンヴィチュニー」は無類の酒好きで、
仲間には「コンウィスキー」と揶揄(あだ名)されていた。
逆に言えば、それほど親しく深い絆で結ばれていたからこそ、
機関車が煙を上げて突き進む様な、一丸となった演奏が可能だったのだろう。

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Karl Ristenpart(1900-1967)

【主な活動レーベル】
Les Discophiles Français
Le Club Français Du Disque

【経歴について】
ドイツ北部の街、キールの生まれ。
1930年代からベルリンで指揮者として活動していたが1953年に同地を離れ
ドイツ南西部、フランスとの国境を有するザールブリュッケンに転居する。

転居した1953年の10月から ザール室内管弦楽団 を自ら創設し活動を開始。
メンバー18人、その内10人は共にベルリンから移住した演奏家たちだった。
同年から Les Discophiles Français レーベルで録音を開始すると、
フランスの一流演奏家と多くの交流が生まれることになる。
特に、フルート奏者のジャン=ピエール・ランパルを中心とする
パリ木管五重奏団 のメンバーとの共演では素晴らしい録音成果を残した。

1960年前後には Le Club Français Du Disque レーベルに移籍。
大手レーベルから離れることで自由な選曲が可能となり、録音数は10倍近く増えた。
さらに本拠地ザールブリュッケン近く、ザールルイの地に録音設備が整い、
パリまで録音に出掛ける必要が無くなった事も録音数の増加に大きく寄与した。

しかしリステンパルトは1967年の演奏旅行中、
ポルトガルで心臓発作に襲われ、クリスマス・イブに死去してしまう。

彼の死はLe Club Français Du Disqueというレーベル、
それ自体の存続に関わるほどの重大な事件であったらしい。
運命を共にする様に翌1968年に15年間のレーベル活動を終了した。

楽団そのものは高名なチェリストであるヤニグロを指揮者に迎え継続したが、
1970年には首席ヴァイオリン奏者だったゲオルク·フリードリヒ·ヘンデルと
その妻で首席チェロ奏者でもあったベティ・ヘンデルを同時に自動車事故で失なう。
そして1973年に ザールブリュッケン放送交響楽団 に吸収される形で、
遂にザール室内管弦楽団は20年の歴史に幕を閉じるのである。

【演奏スタイル】
手兵である ザール室内管弦楽団 を巧みに操り
ドイツの団体ながらフランス的な颯爽とした美麗な響きも兼ね備える、
稀有なサウンドを生み出した。

躍動感に溢れ、聴くものを愉快にさせる『魔法』をかけられる。
人真似ではなく、作品の真髄を引き出し『本物』を提示する。
協奏曲においてはソリストの実力以上の『手腕』を引き出す。
およそ残された録音を聴く限り、不得手とした曲が存在しない。

…そんな賞賛の言葉が尽きない天才的な指揮者なのだが、
同じくドイツとフランスという2つのエッセンスを兼ね備えた偉大なる音楽家、
モーツァルトの作品に関しては「絶品」という言葉以外が浮かばない。
リステンパルトが貫いた優雅で清冽な響きこそ、
モーツァルティアンが最終的に求める音なのではないだろうか。

ドイツ/ウィーン系の作曲家の大傑作録音が異国フランスで幾つも生まれ、
フランスのオーディオ文化を世界的なものにした要因の一つとして、
リステンパルトとザール室内管弦楽団の存在は欠かせない。
オーディオ史という意味では、確かに彼らは歴史を変えたのだ。

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Ernest Alexandre Ansermet(1883-1969)

【主な活動レーベル】
DECCA

【経歴について】
スイス西部の街、ヴヴェイの生まれ。
父の影響を受けて当初は数学者としてローザンヌ大学の教授を務めていたが、
この就職先であるローザンヌの地での出会いが最初の転機となった。
作曲家エルネスト・ブロッホの薫陶を受け、1909年に指揮者に転身したのだ。

1910年にはモントルーで指揮者としてデビューすると、
そのまま当地のオーケストラの監督に就任。
この、活動の場をモントルーに移したことが第二の大いなる転機となった。
当地のカフェで作曲家ストラヴィンスキーと運命的な出会いを果たすと、
彼の紹介から バレエ・リュス の指揮者として抜擢、
一時期は専属指揮者として数々の初演を任される事になる。

第三の転機は1918年にジュネーヴにて スイス・ロマンド管弦楽団 を創設したこと。
スイス・ロマンドとは「フランス語圏(ロマンス語圏)のスイス」という意味。
当然、国際的には無名な団体であったため経済的に苦しかった時期も長かったが、
地元の放送局オーケストラと合併したことで経済的な安定を得、
100年後の現在まで続く息の長いオーケストラとなった。

また、第二次大戦中にはワルターやフルトヴェングラー、
カール・シューリヒトなどドイツ本国で居場所を失った指揮者が
幾度となく客演指揮を務め、楽団の底力の向上の手助けをした。

そして戦争が終わると、第四の転機が訪れる。
同楽団と共に DECCA レーベルとの契約を締結し、
アンセルメは大量の録音を残す事となる。

英国のレーベルだったDECCAはフランス作品においては
Ducretet Thomson や VEGA の音源を使用する事も多かったが、
フランス語圏の人間でありバレエ・リュスとの繋がりまで持つアンセルメは、
DECCAが自社録音でフランス作品を揃えるのに大いに貢献した。

しかし、アンセルメ最大の貢献といえるのは、
今もってなお世界最高峰といわれるDECCAのステレオ・サウンド、
その頂点に立つ SXL番台 において名録音を数多く残した事に尽きる。

当時を知る録音技師Roy Wallaceによると、
1954年にDECCA社で初めてのステレオ試験録音を行った際、
数学理論にも明るいアンセルメが抜擢され、
彼の「文句なし!」の一言でサウンドが決定されたという。

【演奏スタイル】
アンセルメ本人の特徴としてはフランス語圏に留まらない国際感覚と、
その中で光るフランス的エスプリの機微が挙げられる。

フランス作品は元より、スペイン作品でもロシア作品でも
時に熱く、時に涼やかに、曲の魅力を聴き手に堪能させてくれる。
この国際的なバランス感覚こそ バレエ・リュス や DECCAレーベルを惹きつけた、
アンセルメ最大の武器であったと思われる。

しかし、やはり スイス・ロマンド管弦楽団 と併せて語らなければ片手落ちだろう。

創立者として、首席指揮者として長期間に渡って君臨し、
スポーツカーの様な凄まじいスピード感を持つ演奏集団に育て上げた。
当時、これだけ動きの俊敏なオケは他に類を見なかった。
内包されたエネルギーと大胆な表現が、曲の完成度といった次元を超えて感じ取れるのだ。

そして アンセルメ × スイス・ロマンド管弦楽団 × DECCASXLサウンド
この組み合わせは一つのブランドの様になっている。
一度はまってしまうと、何を聴いてもこれを基準に考えるようになってしまう。
しかし、これだけ筋肉質で骨太な音楽はそう滅多にある筈がない。

そして今日も、新たなアンセルメ・ファンが増えていくのである。

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André Cluytens(1905-1967)

【主な活動レーベル】
Columbia
La Voix De Son Maître(VSM)

【経歴について】
ベルギー北部の街、アントウェルペン(アントワープ)の生まれ。
出生時の名前はオーギュスタン・クリュイタンス。

地元アントウェルペンの 王立ボウラ歌劇場 (通称トネールハウス)で
指揮者を務めていた父アルフォンスから幼少時より音楽教育を受けて育ち、
22歳の時には早くも父の後を継いで第一指揮者となった。
そして1932年にフランスに移住、ここから名指揮者への道を歩み始める事になる。

トゥールーズの キャピトル劇場、リヨンの リヨン歌劇場
ボルドーの グラン・テアトル歌劇場 と首席指揮者を歴任、
遂には1939年にフランスへの帰化を決め、アンドレに改名した。
その後、1943年に首都パリに移住したのを契機として、
パリ音楽院管弦楽団(後のパリ管)との蜜月関係を築くこととなる。

同オーケストラ以外にも フランス放送交響楽団(ORTF)、
オペラ=コミック座 などの音楽監督も兼任。
当然のことながら客演指揮にも引っ張りだことなり、
オペラ座シャンゼリゼ劇場 などでも八面六臂の活躍を見せる。

そして、世界的な音楽の中心地となっていたパリを沸かせる男を
各国のオーケストラが見逃すはずもなく、
ウィーン・フィルベルリン・フィルチェコ・フィル など、
世界中の様々なオーケストラが彼を客演指揮者として呼び寄せた。

1955年には バイロイト音楽祭 で演奏した最初のフランス人指揮者となり、
ドイツ人の為に築き上げてきた同音楽祭の歴史を塗り替える事となった。
主催者であるヴィーラント・ワーグナーも、最大の賛辞を贈っている。

「クリュイタンスの響きは、エレガントで、クリアで、
 ニュアンスがあり、カラフルで、威厳に満ちていた。
 それは洗練された一流のオーケストラが持つ響きの中でも、
 最も崇高なものだった。」

【演奏スタイル】
一言で表すならば「フランスそのもの、パリそのもの」である。
パリ音楽院管弦楽団 を1946年から没年まで率い、
オーケストラに於けるフレンチ・スタイルを確立させた。

後継団体である パリ管弦楽団(パリ管)は、
指揮者の国籍を問わず一貫してフランス的な音を出すことで知られている。
この『フランス的』である清冽で明朗、色彩豊かなサウンドは、
先代のミュンシュとクリュイタンスが作り上げたものであり、
現代に至るまで続く大いなる系譜なのである。

自由奔放、なのに曲としての完成度は高く、
匂い立つ様な妖しい濃厚さと、清流の如き清らかさを同時に表現する。
押し付けがなく、力みもないが、エネルギーはあり、
個々のフレージングが軽妙にして爽やか。
こういった幾つもの相反する要素を一つに料理してしまう、
このさじ加減こそクリュイタンスならではの手腕。

そして、この手腕は協奏曲でも十二分に発揮される。
マルグリット・ロンとのフォーレおよびショパン、
その弟子サンソン・フランソワとのラヴェルなど、
後に決定盤と呼ばれる様な数々の名演を繰り広げた。

また、客演でも数々の名指揮を見せている事を忘れてはならない。
例えば ベルリン・フィル 初となるベートーヴェンの交響曲全集録音である。
EMIグループは首席指揮者のカラヤンではなくクリュイタンスを起用した。

※バイロイトの成功を聞きつけた DECCA が引き抜きを画策、
 フランスEMIグループがクリュイタンスを自社に繋ぎ止めるために
 系列会社の ELECTROLA から根回ししたとされる。

フランス音楽を得意とするベルギー人が、
ドイツ人のオーケストラでドイツ人作曲家の代表作を指揮する…。
そんなシチュエーションでもクリュイタンスは流石だった。
意外な程の迫力感に溢れながらも、流麗で押し付けがましいところが無い。
技術と感情とのバランスが完璧に整ったベートーヴェンを作り上げたのである。

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Carl Adolph Schuricht(1880-1967)

【主な活動レーベル】
La Voix De Son Maître(VSM)
Concert Hall

【経歴について】
ポーランド北部の街、グダニスク(ドイツ語ではダンツィヒ)の生まれ。
6歳から隣国ドイツのギムナジウムに入学すると、以降はドイツを本拠とした。

音楽人生の転機となったのは1912年から1944年まで続いた、
ドイツ中央西部のヘッセン州ヴィースバーデン市の音楽監督への就任である。
ここでシューリヒトは ヴィースバーデン市立管弦楽団 を手兵とし、
ドイツ好みの古典派やロマン派に留まらず、現代音楽も好んでプログラムに取り入れた。
これには1906年のマーラー「交響曲第6番」の初演を目にした事が大きかった様である。

1913年に指揮したマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」は、
ドイツのみならず欧州中にシューリヒトの名前を轟かせる。
翌年にはロンドンやミラノに招聘されるなど、順風満帆のキャリアが始まる筈であった。

…しかし、ミラノ・スカラ座 出演の直後にサラエボ事件、そして第一次世界大戦が勃発。
彼の名が再び音楽史に戻ってくるまで、実に7年の歳月を必要とした。
1921年、自身が発起人となった グスタフ・マーラー音楽祭 を開催、
5月には ベルリン・フィル への客演と立て続けに敬愛するマーラー作品を演奏。
結果、1920年代には「マーラーと云えばシューリヒト」という揺るがぬ評価を
国内外から受けていたシューリヒトだった…が、またしても彼を苦難が襲う。

1932年にナチスが第一党となると、ユダヤ系だったマーラーの曲が禁止された。
国内の活動を続けながら、それでも国外では変わらずマーラーを演奏し続けていたが、
第二次大戦が激化する1944年には遂にゲシュタポに追われスイスの地に亡命する事となる。

2度目の終戦がようやく訪れると、その後は ウィーン・フィル との関係を深める。
ナチス側を疑われた指揮者や楽団員が次々と退団していく中、立て直しに尽力。
アメリカを始めとした世界ツアーにも首席指揮者として同行し、成功を収めた。
1965年8月、齢85歳にして生涯最後となる指揮となったのも、
ウィーン・フィルとの ザルツブルク音楽祭 での演奏だった。

【演奏スタイル】
誤解を恐れず言えば、独特のテンポ感を持つ御仁である。
颯爽と吹き抜けるつむじ風の様なスタイルで、
大型の推進装置をまとったロケットの如く、速足で駆け抜ける。
そこにブレない『魂』を感じてしまうので、聴いている方も曲に入り込んでしまう。

「疾走するサウンド」「疾走するオーケストラ」の枕詞を聞いて、
スイス・ロマンド管弦楽団 を連想される方も
DECCA愛好者を中心に少なからず居るだろう。
実はスイスへの亡命中、シューリヒトはアンセルメの誘いを受けて、
60回以上に渡り客演指揮者として同楽団に携わっているのだ。
あの類稀なるスピード感の背景には、シューリヒトの影響もある事が想像に難くない。

ただし「テンポ感が早い=情感や芸術性が薄い」という事では決してない。
シューリヒトの後半生の評価を絶対的にしたのは、
1956年1月、76歳の時に ウィーン・フィル を振ったモーツァルトである。

前年、完全復活していない同楽団に喝を入れ再奮起させたとの逸話も手伝い、
(本拠地だったウィーン国立歌劇場は空襲で焼け落ちたままだった)
偉大なる作曲家の生誕200周年を祝うに相応しい、
あまりに美しいモーツァルトは観衆から大絶賛を受けたのである。

また、よくある誤解で「遅咲きの指揮者」と評される事が多い。
しかし、経歴を見ていただければ判るが2度の戦争が影響して、
オーディオ文化と上手く関われなかった、と捉えるのが正しいだろう。

VSM でのウィーン・フィルとの共演は名盤を幾つも残したが、
商業主義的なEMIグループとは上手く折り合いが付かず馘首されてしまう。
移籍先の Concert Hall では一流のオケとの共演が難しく、
パリ音楽院管弦楽団 以外とは秀演を上手く残せなかった。

しかし、ドイツの片田舎のヴィースバーデン市を音楽の都に変え、
ベルリン・フィルを含めたドイツ各地のオーケストラを率い、
スイス・ロマンド管弦楽団にアンセルメと共に携わったのは、
決して老人になってからの経歴ではない。
彼の『魂』が老齢になろうとも色褪せなかっただけの話なのである。

晩年の指揮を見た評論家、ロジェ・ヴァンサンの言葉を最後に紹介したい。

「この舞台を弱々しく歩く老音楽家が、いざオーケストラの前に立った時、
 老人の影はかき消えて、その若々しさと信念とで全てを変えてしまったのだ。」

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【 2022/9/8 更新 】














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