ソビエト連邦オーケストラ事情

ご存知の方も多いと思うのですが、
旧ソ連のオーケストラ事情は非常に複雑で、
時代ごとに名前が変わるほか、日本語での記載もさまざま。
今回、団体名を可能な限り統一するために調査を行い、
その際に判明した情報を当ページにて公開する運びとなりました。

某書記長に倣って書くならば、
『親愛なる同志諸君の更なる研鑽のため、
 グラスノチを決定したものである』


ただし、不明点も多く調査が継続中である事を御了承ください。
『 』内が統一の際に弊社で採用した呼称、
並び順はオーケストラの設立年となっております。


『Symphony Orchestra of the Bolshoi Theater』

1780年に落成した「ペトロフスキー大劇場」の常任オケが母体と思われるが、
公演していたマドックス一座に所属する音楽家は12名と記載されているため、
最初からオーケストラ編成だったのか詳しくは不明。

ちなみに現在の「ボリショイ劇場」という名前は「大劇場」という意味。
所在していた「ペトロフスカ広場」が1919年の十月革命の際に、
シンプルに「劇場前広場」という名前に改名された。
これに合わせて劇場からもペトロフスキーの名が消滅した為。

結果として形容詞の「ボリショイ」=「大きい」という呼称だけが残ったが、
ソビエト放送o.なども含め「ボリショイ」の冠が付く事は多く、
「ボリショイ劇場o.」と書かないと、どこの団体が分からない。
『ボリショイ・オーケストラ』や『ボリショイ大劇場』も言葉としては不適当。
『大オーケストラ』や『大・大劇場』ではボリショイ劇場の意にはならない。

ロシア最古かつ世界最大級のオケとして名高く、現在も名称は同じ。

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『Academic Symphony Orchestra of the Leningrad Philharmonic』

ボリショイ劇場o.に対して、こちらはロシア最古の交響楽団。
1882年に宮廷付き合唱団として産声を上げ、1897年に宮廷楽団として組閣。
1921年にレニングラード・フィルハーモニー協会の所属となった。
ちなみに1802年に創立した当団体こそ世界初の「フィルハーモニー」協会とのこと。
宮廷音楽家の遺族年金を支払う団体が出自だったらしい。

革命と共にモスクワへの遷都が起きたが、
旧首都に所在する「皇帝陛下のオーケストラ」の音楽性が下がる訳もなく。
ソビエト国立so.が国家の顔となるまでは、
19世紀後半~20世紀初頭に作られた楽曲の「ソビエト初演」は
殆どの場合でレニングラードpo.が担当したらしい。

現『サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団』

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『Symphony Orchestra of the All-Union Radio』

ソビエト国立放送のクラシック部門には大きく二つのオーケストラがあり、
第1オーケストラは1930年に設立された。
ラジオという当時の主要メディアを支えたソビエトの屋台骨であり、
テレビの登場以降は『Radio&TV』という言葉が付く形に改名して継続。
ソビエトに住まう人々にとって最も目に触れるであろう団体であり、
もちろん政治的にも重要な存在だったと思われる。

ちなみに日本では慣例的に「モスクワ放送o.」と呼ばれているが、
こちらについては別項の「番外編」も参照いただきたい。

この項では、彼らもVPO(ウィーン・フィル)やBPO(ベルリン・フィル)など、
世界の主要オケと同じく3文字の略称を有していたが、
モスクワの「M」が入った事は歴史上ない、という事実のみ記載するに留める。

現『チャイコフスキー記念・国立アカデミック・ボリショイ交響楽団』

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『Academic Symphony Orchestra of the U.S.S.R.』

1936年ソビエト放送o.のメンバーに、
モスクワ音楽院の卒業生を加える形で創設。
1936年10月5日の最初のコンサートもモスクワ音楽院の大ホールだった。

『ソビエト国立』の名を冠して世界中を飛び回り、
ソビエトの音楽性を知らしめたオーケストラである。
レニングラードpo.の次の時代を担うオケとして初演や蘇演も数多く行っており、
特にスヴェトラーノフが首席になってからは莫大な量の録音を残した。

現『ロシア国立交響楽団』

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『Academic Symphony Orchestra of the Moscow Philharmonic』

ソビエト放送協会に所属していた2つのオケが統合する形で1951年に創設。
若手音楽家を鍛えるというのが設立当初からの主眼らしい。
1953年からモスクワ・フィルハーモニーという名の「音楽協会」に所属し現在の名称になる。
対外的にも「モスクワ・フィル」の名が使われており、本邦でも通称となっている。

正式(?)には「モスクワ・フィルハーモニック所属アカデミック交響楽団」となり
アカデミックやら交響楽団やら矢鱈と尾鰭が付くが、
党の決定なので余程の暑がり屋じゃなければ気にしない方が良い。
とても、とても涼しい所に無料招待されたい人は別として。

現在も名称は同じまま。

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『Moscow Chamber Orchestra』

ボロディン四重奏団にヴィオラ担当として所属していた、
ルドルフ・バルシャイにより創立。

1953年にスターリンの逝去を機に自由を手に入れたバルシャイは、
自身の活動の場所を広げていたが、
そんな中、1955年に「ミュンヘン室内o.」がモスクワに訪れ、
バッハとヴィヴァルディを演奏した。

この演奏に大いに感化されたのと、
恐らく指揮者へのステップアップの意図もあり、
モスクワ音楽院に関係する若手を中心にメンバーを厳選、
1955年に旗揚げし、翌1956年に初のコンサートを開いた。

この楽団はソビエト初の室内管弦楽団となるが、
なんと設立以前までのソビエトでは室内楽作品も
フル編成のオーケストラによって演奏されていたという。
如何に音楽家にとってスターリン時代が暗黒期だったか、
こういった事情からも見て取れる。

さて、御多分に漏れず、この団体も説明が面倒となる。
まず『室内オーケストラ』という名前の定義が曖昧で、
弦楽アンサンブルだったり、古楽器アンサンブルだったり、
フル編成のオーケストラから打楽器を抜いただけの大人数の場合も、
10人にも満たない少人数の場合もあり、
独自団体の場合も、既存のオケからの選抜メンバーの場合もある。
この全てが『室内楽団』の名前を使うのだから、ややこしい。

「モスクワ室内o.」の場合は、
『モスクワフィルハーモニー協会』の所属団体だが、
「モスクワpo.」からの選抜ではなく『独自団体』である。

残されている写真を見ると『弦楽アンサンブル』編成だと思われる。
ショスタコーヴィチが彼らの為に書いた交響曲14番「死者の歌」も
弦楽アンサンブルに客演で歌と打楽器が加わる編成で書かれているので、
恐らくは弦楽アンサンブルの20人ほどのメンバーが正式な団員であり、
管楽器やチェンバロなどは客演メンバーなのだろう。

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『USSR Ministry of Culture Symphony Orchestra』

1957年に新設したソビエト放送の第2オーケストラであるソビエト放送オペラso.が母体。
BBC交響楽団やウィーン交響楽団から首席待遇を受けていた指揮者、
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが亡命を図らぬ様(?)、
1981年あるいは1983年にソビエト文化省o.として新生させ全権を与えた。

ちなみに件のロジェストヴェンスキーが首席を担った2つのオケ、
イギリスのBBC交響楽団には専属のコーラスが、
ウィーンの地には楽友協会という150年の歴史あるコーラス隊が居た。
これに倣ったか、ボリショイ劇場出身のロジェストヴェンスキーに気を遣ったか、
常設コーラス付きというソビエトにしては珍しい豪華な編成となった。

現『ロシア国立シンフォニック・カペレ』

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---- 番外編 ----

『Bolshoi Symphony Orchestra of Leningrad Radio Committee』

今となっては完全に解明する事は恐らく不可能な団体である。
1931年にレニングラード放送の座付きオケとして設立。
そして、このオケに関しては『1942年8月9日』を語るしかない。

ナチスに包囲されレニングラードpo.は既に疎開している中、
現地に残りショスタコーヴィチの交響曲7番『レニングラード』を演奏する事となる。
示威のため、敵であるドイツ兵の耳にも届く様にソビエト軍も協力したという。
既に餓死したメンバーもおり、更にリハーサル期間中に3名が死亡。

掻き集めという他にない当日の演奏者の氏名および職業も記録に残っており、
空元気、虚勢、蟷螂の斧を必死に振るった実演だったのは事実だが、
同時に、その音がロシア人を鼓舞し、ドイツ人を畏怖させた記録も残っている。

しかし、戦後の1953年になりレニングラードpo.が戻ると、
余力の尽きていたレニングラード放送o.は合併吸収され、
レニングラードpo.の第2オーケストラとして活動を続ける事になった。

この「合併吸収」されたというのが問題で、
レニングラードpo.名義のレコードには、
旧レニングラード放送o.=第2オーケストラの録音が紛れている。
一時期を除いてレコード期の首席指揮者は判明しているので、
以下の指揮者が振っている時は旧放送o.と考えて良さそうだが、
空白の時期や客演指揮者の場合は判断が難しくなるか、不可能になる。

1937-1950 カール・エリアスベルク
1950-1957 ニコライ・ラビノヴィチ
1964-1967 アルビド・ヤンソンス
1968-1976 ユーリ・テミルカーノフ
1977-2018 アレクサンダー・ドミトリエフ

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『Leningrad Chamber Orchestra』

こちらも恐らく完全な解明は不可能な団体である。

事実A:
レニングラードpo.のコンマスだったラザール・ゴズマンが、
1961年に結成したのが「レニングラード室内o.」である。

事実B:
レニングラードpo.第2オケのコンマスだったレフ・シンダーが、
1963年に結成したのが「レニングラード室内o.」である。

結論:
レニングラードpo.選抜と旧レニングラード放送o.選抜が、
両者とも同じ名前を使っており、二種の室内オケが存在する。
前項にある通り1953年に放送o.はレニングラードpo.に吸収されているため、
旧放送o.選抜の団体も「レニングラード室内o.」と名乗らざるを得ないからである。

とは言え、創始者のゴズマンやシンダーが在籍中は
指揮者またはリーダーとして名前が書いてあることが多いので分かりやすい。
或いは旧放送o.の首席指揮者、ラビノヴィチ等が振っている場合も分かりやすい。
問題はゴズマンが1977年、シンダーが1979年にコンマスを引退して以降と、
客演指揮者が振っている場合である。
こうなると、よほど明確な証拠が記載されていない限りは断言が難しい。

可能な限り正確な情報を提供できる様に努めるのが弊社の方針だが、
この団体に限っては限界があると認めざるを得ない。

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『Symphony Orchestra of Moscow Radio』

『モスクワ放送o.の謎』とでも表題を付ければ、
まるでエラリー・クイーンの国名シリーズだが、
今回の調査の最大の収穫が「モスクワ放送o.」についてである。

日本では今も「モスクワ放送交響楽団」と呼ばれるこの楽団、
『存在する』『存在しない』団体なのである。

一足飛びに結論から書いても良いのだが、
長い時間を調査に費やした担当者に免じて、
このミステリーにお付き合い頂きたい。


----謎の始まり----

そもそもの契機は『モスクワ放送』とは如何なる放送局なのか?を調べたこと。

すると『モスクワ放送』は1929年に設立された
海外向けに演説を流すプロパガンダ放送局であり、
世界初の外国語放送を行ったラジオ局だと判明する。
放送内容は『五ヶ年計画の成果』『社会主義的変革』『外交政策のテーマ』、
そして『ファシズムとナチズムの批判』となっており音楽番組の形跡がない。
組織図を見てもオーケストラを置いておく部門が存在しない、
海外向けの『ニュース放送局』が『モスクワ放送』だったのだ。

対して『ソビエト国立放送』は国内向けの放送局で多種多様な番組を放送する。
組織図を見てもクラシック、民族音楽、ポップスなど複数の楽団が存在する。
部門とオーケストラが存在するのだから、もちろん音楽番組も存在する。

では『モスクワ放送のオーケストラ』とは如何なる存在なのか。

日本語および英語版Wikipediaの現「チャイコフスキー交響楽団」の項には
設立当初は「モスクワ放送o.」だったとあるが、
楽団の公式サイトにもロシア語版のWikipediaにも、
最初から「ソビエト放送o.」として活動を始めたと記載されている。
「モスクワ放送o.」の文字は全く見つからないが、
前述の通りモスクワ放送には音楽番組が無いので当然の結果でもある。

ロシア語の資料では『存在しない』団体とされているのであれば、
現実に発売されたレコードを調べるほかない。


----謎の深まり----

調べる前から予想されていた通り、
本家MELODIYA盤には『USSR』あるいは『ALL UNION』の文字が躍り、
オーケストラ名としては「ソビエト放送o.」が適当となる。

『ル・ラック・デ・シーニュ(白鳥の湖)』『サンドリヨン(シンデレラ)』など
意外な名盤の多いフランスのシャン・デュ・モンド盤には、
『Orchestre Symphonique De La Radio De L'U.R.S.S.』と記載がある。
『L'U.R.S.S.』は『L'Union des Républiques Socialistes Soviétiques』の略で、
要はソビエト連邦=USSRのフランス訳である。

シャン・デュ・モンド(Le Chant du Monde)は疑いの余地もなく、
MELODIYA西側出口の元祖だったレーベルである。
つまり西側プレス用の変名が「モスクワ放送o.」だったという、
ありがちでシンプルな結論には辿り着かない。

実際のレコードにあたった結果、
「モスクワ放送o.」の存在は更に疑わしいものになってしまったのだ。

流行のAIにもネット上に存在する多言語の情報にあたって貰ったが、
結局は一次資料のない伝聞を互いに正解として記載している
『エコー・チェンバー』的な情報しか見付からなかった。

伝聞どころか時には文献すら無作為に虚偽を広めるが、
実物のレコードは手に取って確認できる確かな一次資料である。
ここまでの調査結果を見れば恐らく誰しもが思う様に、
『モスクワ放送o.は存在しない』という結論に本稿も帰着しかねなかった。
『モスクワ放送に音楽部門は存在しない』ので当然の話だ、と。

…が、意外なところから正体が判明する。


----謎の収まり----

下記のオランダMELODIYA盤のレーベルを見ていただきたい。
文字色を反転し拡大すると「Koor en Orkest van Radio Moskou」の表記が見える。
このオランダMELODIYA名義で発売されたレコードが、
「モスクワ放送o.」の謎を紐解く重要な『証拠品』となった。



オランダから出ているMELODIYA盤は、
多くが『Original Recording Of The U.S.S.R.』というシリーズである。
そして、このシリーズはベルギーのCNRというレーベルがライセンスを締結し、
オランダのPHILIPSなどにプレスを任せたサード・パーティ盤なのだ。

どうやらMELODIYA録音が西側でプレスされる場合、
大きく分けて以下の3つのパターンがあったらしい。
元祖である仏シャン・デュ・モンド盤、
西側の演奏者が参加している場合の共同製作盤、
そして西側レーベルに音源を貸すライセンス盤(サード・パーティ盤)。

このライセンス盤こそ「ソビエト放送o.」が、
「モスクワ放送o.」という謎の団体になった大きな原因だったと思われる。
ライセンス盤に焦点を合わせると、
英HMVや日本ビクター盤などから次々と「モスクワ放送o.」表記が発見された。

最初に「モスクワ放送o.」を表記したレコードや、
その経緯などは現時点では不明だが、
西側の人々にとって『ソビエトの国営ラジオ』とは、
海外向けに発信されていた『モスクワ放送』だったのだろう。

もちろん真相であるとの断言は出来ないのだが、
本稿では西側発売分、その中でもライセンス盤こそが、
存在しない団体を仕立て上げた『犯人』であると結論する。


----終わりに寄せて----

ここからは、更に発想の飛躍がある旨を御了承いただきたい。

「ソビエト放送o.」の楽団員たちは
西側で「モスクワ放送o.」と呼ばれている事をいつ知ったのだろうか。

公式サイトのヒストリーを見ると、
1970年代から海外でも公演する様になったとある。
これは公式サイトが曰う『東西関係の雪解け』というよりも、
20代の時から欧州ツアーで名を馳せたロジェストヴェンスキーが、
「ソビエト放送o.」の音楽監督に就任したのが大きな理由だろう。

それまで西側への外貨獲得ツアーと言えば
「ボリショイ劇場o.」か「ソビエト国立so.」であり、
プロモーターも聴衆もそれを望んでいた筈である。
海外では無名の国内向け放送オーケストラをツアーに出す利点が、
ソビエト当局側の立場で考えると何も見当たらない。

だが、ロジェストヴェンスキーの登壇で全てが変わる。
20代で「ボリショイ劇場o.」を連れて西側を渡り歩いた御仁であり、
当然の様に「ソビエト放送o.」も初めての海外ツアーに出向くことになる。

ツアーが決定した際の楽団員の驚きは相当だったと思う。
満を持しての海外ツアーが決まったと思えば、
『モスクワ放送に所属するオーケストラ』という
『存在しない』屋号を背負って行けというのだから。

権利関係が確認できないので画像の引用やリンクは避けるが、
 1972年のロジェストヴェンスキー来日プログラム には、
恐らくNHK関係者の手による以下の麗句が躍っている。

『国立モスクワ放送交響楽団は1930年の創立以来、
 ソビエトの作曲家の作品を精力的に紹介しており、
 ソビエト音楽芸術の至宝ともいえる作品の素晴らしい演奏が期待されます。』

先だっての記述と重複してしまうが、
海外向けニュース放送局『モスクワ放送』の設立年は1929年であり、
1930年に創立した放送局オーケストラは「ソビエト放送o.」であると資料は語る。

当時40年の歴史を持つ「ソビエト放送o.」が1972年の初来日の時点で既に、
「国立モスクワ放送交響楽団」というロシア語表記では言葉の並びも怪しげな、
モスクワを本拠とする謎の団体として日本では紹介されていたのだ。
『国立』という冠詞をどこかに入れないと格が下がると思ったか、
ラジオ・モスクワが『国立モスクワ放送』と呼ばれていたのだろう。

…いずれにせよ、ここに統合は成された。
『モスクワ放送のオーケストラ』という実際には存在しなかった団体が、
海外ツアーを契機に『産声を上げた』のだ。

改名後のチャイコフスキー交響楽団に於けるロシア語の資料にも
当然ながら「モスクワ放送o.」の単語は出てこない。
が、自分達が西側では「モスクワ放送o.」と認識されている事実は、
今となっては団員全員が理解し、黙認しているだろう。

日本を含めた西側世界の聴衆にとってのみ存在する、
「モスクワ放送o.」の後継者という立場を、
2020年代の今も団員が背負わされている事実を資料は物語る。

ライセンス盤の記載を信じる人にとって、
「モスクワ放送o.」は確かに『存在する』
だが、当時のモスクワに住まう楽団員にとっては、
成立する訳がない『存在しない』オーケストラだったのだ。

当然のことながら、確かな一次資料や関係者の発言が確認できれば、
本稿は迅速に修正されるものである。
最初に書いた様に現時点で確認できる資料による『ミステリー』、
あるいは『ファンタジー』でしかないのだ。

ただ、今回の調査資料から伝わる事実を踏まえて、
弊社では敬意を持って「ソビエト放送o.」で名称を統一する事とした。
ソビエト当局や西側レーベルが採用した名称とは関係なく、
当時の楽団員は『ソビエト国立放送ラジオ局のオーケストラ』を自負し、
誇りを持って活動していたと推測するからである。

―閉幕(カーテン・フォール)













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