[MERCURY] B.ジャニス(pf) K.コンドラシン指揮モスクワpo. / Pf協奏曲集/プロコフィエフ:3番Op.26, ラフマニノフ:1番Op.1
商品コード: 1274-064
商品詳細:通常は映画などに使われる最高クオリティの35㎜マグネチックフィルム使用のオーディオファイル欧州プレス。映像用の材料なので非常に高価で録音だけに使われることは殆どない贅沢な方法である。この為、音質は抜群に良く、欧州プレスの音楽性の高さと、音質の両立という偉業に、改めて感心する次第だ。ここには、マーキュリー特有のどぎつい、人を驚かせる音は無く、曲の為の高音質再生がある。B.ジャニスは、こういった曲をやらせると天下一品で、まったくサマになる。自信にあふれたソロの一音一音が、エネルギーを帯びて飛んでくる。オケとの一体感も素晴らしく、欧州プレスなら、存分に楽しめる。バイロン・ジャニス(1928-)は東欧系ユダヤ人として、アメリカ・ペンシルバニアに生まれる。8歳の時に初めてのリサイタルを行い、それがロシア出身の名ピアニストのヨーゼフ・レヴィンと夫人ロジーナ・レヴィンの知るところとなり、夫妻のもとで2年間にわたってレッスンを受け、その後レヴィンの助手をしていたアナディール・マーカスに師事し、ジュリアード音楽院に進む。1944年、ジャニスが16才の時にピッツバーグで幼いときからの友人であったロリン・マゼールの指揮でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏した。マーカスは語る。「このとき、すでにジャニスはロマン派の音楽に対する豊かな想像力と卓抜な解釈を持っていた」と。すでに若い有望なピアニストであったジャニスに大きな幸運がこの時訪れている。コンサートを聴いていたウラディミール・ホロヴィッツが楽屋のジャニスを訪ね、「君のピアノには閃きがある」と語り、「ニューヨークに来たら、電話をしてくれ。是非レッスンをしてあげたい。」と申し出たのだ。そして四年にわたってジャニスはホロヴィッツのレッスンを受けることとなった。ホロヴィッツの3人の弟子の1人として学ぶことになる。1958年にヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝をさらうと、米ソの芸術における雪解けムードが高まる。そのような時期の1960年バイロン・ジャニスは最初のアメリカ人として当時のソ連に派遣され、モスクワ公演を行った。これは驚異的なまでの成功を収め、米ソ交流の架け橋となる。この録音もそれが縁で実現。彼はラフマニノフを得手としていて、優れた技巧はこれらの曲の表現に欠かせない。モノラルで彼のピアニズムがはっきり解る。ダイナミズム、そして正確無比、一切の妥協と曖昧さのないピアノは超人的!独奏曲ではとりわけショパンの演奏で、また協奏曲ではラフマニノフやプロコフィエフの演奏が知られている。この録音は1962年6月にMERCURY社が旧ソ連に機材一式を持ち込んで現地録音した名録音である。モスクワ公演の成功が呼び込んだ米ソ共同製作となった。1960年代はじめ、彼は、ヴァン・クライバーンと並ぶアメリカのスターとなった。1962年の録音時には二度目のモスクワ公演を行った。旧ソ連でもヴァン・クライバーンに続きバイロン・ジャニスのフィーバーが起こった。米国ではホロヴィッツと並ぶセンセーショナルなピアニストであった。これはそのモスクワ録音である。MERCURYとしては初の試みで同じ時にリストのピアノ協奏曲第1番をキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニーと共演し、第2番をゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮モスクワ放送交響楽団とマーキュリー・レーベルに録音している(1962年6月12・14・16日)。ヴァン・クライバーンはチャイコフスキーで、バイロン・ジャニスはラフマニノフとプロコフィエフで世界を席巻した時代の色褪せることのない記録である!
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