商品コード:1302-062p[Pathé] V.アシュケナージ(pf) Z.グジュイニスキ指揮ワルシャワpo. / ショパン:Pf協奏曲2番Op.21, バラード2番Op.38, スケルツォ4番Op.54, 練習曲Op.10-1, Op.25-3, マズルカ(2曲)
商品コード: 1302-062p
商品詳細:1955年ショパン・コンクールで2位入賞、1位にならなかった事に腹を立てたミケランジェリは審査員を降板する騒動を起こした(優勝はハラシェヴィチ)。これは国立ワルシャワo.をバックにその時の凱旋録音。さすがコンクールだけあってオケがなかなか素晴らしいが、ソロはおよそDECCA時代と同一人物とは思えない、閃きに満ちた熱演だ。このレベルが保たれれば、その後の名声はより大きくなっただろう。B面の小品も素晴らしい。ウラディーミル・アシュケナージ(1937-)はソヴィエト連邦・ゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)出身のピアニスト、指揮者。ヘブライ語の姓「アシュケナージ」が示す通り、父方はユダヤ系であるが、母は非ユダヤ系のロシア人である。妻の故国であるアイスランドの国籍を取得した。6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。1955年にモスクワ音楽院に入学、レフ・オボーリンやボリス・ゼムリャンスキーに師事した。その1955年ワルシャワで開催されたショパン国際ピアノ・コンクールに出場し、2位に輝いた。優勝はアダム・ハラシェヴィチ。アシュケナージが優勝できなかったことに腹を立てた審査員のミケランジェリが退場したことは、1980年の第10回(ダン・タイ・ソンが1位)で審査員のアルゲリッチが、ポゴレリチが評価されないので退場してしまったこと同様に有名な話。日本からは田中希代子(1932-1996)が参加して第10位に入賞している。ミケランジェリが退場した話は実は田中希代子が伝えたとされる。尚第3位は中国のフー・ツォン(1934年生まれ)。ツォンはこのとき「マズルカ賞」も受賞している。日本人として初めてショパン・コンクールに出場したのは1937年の第3回における原智恵子(1914-2001)で、入賞こそしなかったものの、というか入賞しなかったことに聴衆が納得しなかったため「聴衆賞」を受賞した。このLPは西側における唯一のLPであった。それまで名前すら聴いた事がない若手ロシア人のウラディーミル・アシュケナージは、この時初めて西側にその名前を知られる事となる。翌1956年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場して優勝を果たし、これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行してセンセーショナルな成功を収めた。音楽院在学中から国際的な名声を確立した。以降はDECCAと契約してからはご存じの通りである。是非ミケランジェリが退場した心情をこのLPから汲み取っていただきたい。なおアシュケナージはMELODIYAにショパン:24の練習曲Op.10/25をД 6035-8で出しているが1959年-60年録音でコンクールの後である。
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