商品コード:1351-037[RCA] B.ジャニス(pf)/ リスト:死の舞踏, ラフマニノフ:Pf協奏曲1番
商品コード: 1351-037
商品詳細:ラフマニノフ1番:1957年5月2日、リスト:1959年2月23日米国シカゴでモノラル/ステレオ録音されたもの。1957年にラフマニノフ1番+R.シュトラウス:ブルレスケのカップリングで当初モノラル発売されたあと1965年になってVICSでステレオが発売された。当初のカップリングでのLSC番号は1980年代になってサード・パーティでステレオリリースされた。1961年になってラフマニノフ1番+リスト:死の舞踏がカップリングされ、LM-2541/LSC-2541でリリースされた。フランスでは1964年頃になって初めてラフマニノフ1番+リスト:死の舞踏のカップリングで初リリースとなったようである。バイロン・ジャニス(1928-)は東欧系ユダヤ人として、アメリカ・ペンシルバニアに生まれる。8歳の時に初めてのリサイタルを行い、それがロシア出身の名ピアニストのヨーゼフ・レヴィンと夫人ロジーナ・レヴィンの知るところとなり、夫妻のもとで2年間にわたってレッスンを受け、その後レヴィンの助手をしていたアナディール・マーカスに師事し、ジュリアード音楽院に進む。1944年、ジャニスが16才の時にピッツバーグで幼いときからの友人であったロリン・マゼールの指揮でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏した。マーカスは語る。「このとき、すでにジャニスはロマン派の音楽に対する豊かな想像力と卓抜な解釈を持っていた」と。すでに若い有望なピアニストであったジャニスに大きな幸運がこの時訪れている。コンサートを聴いていたウラディミール・ホロヴィッツが楽屋のジャニスを訪ね、「君のピアノには閃きがある」と語り、「ニューヨークに来たら、電話をしてくれ。是非レッスンをしてあげたい。」と申し出たのだ。そして四年にわたってジャニスはホロヴィッツのレッスンを受けることとなった。ホロヴィッツの3人の弟子の1人として学ぶことになる。1958年にヴァン・クライバーンが第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝をさらうと、米ソの芸術における雪解けムードが高まる。そのような時期の1960年バイロン・ジャニスは最初のアメリカ人として当時のソ連に派遣され、モスクワ公演を行った。これは驚異的なまでの成功を収め、米ソ交流の架け橋となる。この録音もそれが縁で実現。彼はラフマニノフを得手としていて、優れた技巧はこれらの曲の表現に欠かせない。ダイナミズム、そして正確無比、一切の妥協と曖昧さのないピアノは超人的!独奏曲ではとりわけショパンの演奏で、また協奏曲ではラフマニノフやプロコフィエフの演奏が知られている。1960年代はじめ、彼は、ヴァン・クライバーンと並ぶアメリカのスターとなり、ラフマニノフのスぺシャリストとして知られた。旧ソ連でもヴァン・クライバーンに続きバイロン・ジャニスのフィーバーが起こった。米国ではホロヴィッツと並ぶセンセーショナルなピアニストであった。バイロン・ジャニスはラフマニノフとプロコフィエフで世界を席巻した時代の色褪せることのない記録である!ラフマニノフ:Pf協奏曲1番は複数回録音したが、これは最初の録音である。
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