商品コード:1340-004[TELEFUNKEN] W.シュティヒ(pf)/ ガーシュウィン:Pf協奏曲 ヘ長調
商品コード: 1340-004
商品詳細:仏TELEFUNKENレーベルだが、独TELEFUNKEN音源のDucretet Thomsonによるライセンス製造分である。録音はベルギーで行われたと思われる。ピアノのヴィリー・シュティヒ( 1905-1979)はドイツ、バーデン ヴュルテンベルク州・フライブルク近郊のエーレンキルヒェンの生まれ。1922年から1927年までケルン音楽大学でピアノと作曲を学び、その後国内外でコンサートピアニストとして活動した。 1933 年の初めに、彼はNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)のメンバーになる。 1933 年 7 月 21 日、彼は新しく設立されたドイツ銀行の書記長に任命された。彼は同局のハウス・ピアニストを務めたほか、エンターテインメント部門の責任者でもあり、その番組を企画した。当時クラシックもダンス音楽も垣根は無く、バンドマンという括りであった。1934 年にハロルド・M・キルヒシュタインとともにオーケストラ編成Die Goldene Sieben を設立。 1939 年の解散後、シュティヒは顧客の指示に基づいて新しいオーケストラ、ドイチュラント・ゼンダー・ダンス・オーケストラを結成した。 1941 年の戦争の冬、このオーケストラはヴィリー・シュティヒ指揮の下、初めてラジオ放送された。 1941 年末以来、ほぼ継続的に活動していた。 1942 年から 1943 年にかけてはドイツ・グラモフォンでもレコードが録音され、1943 年末からは磁気テープにも録音された。注目すべきことに、これらには、ドイツの放送ではブロックされ、おそらくドイツの外国放送局によって使用されたと思われるアメリカのスイングタイトルも含まれている。ガーシュウィンのような米国ナンバーも戦前のドイツでは盛んに演奏されていたようである。終戦後、シュティヒはチェコ軍の捕虜となり、その後スイスでピアニストとして活動した。1951 年から 1970 年まで、彼はフライブルクの南西ファンクの小さなエンターテイメント・オーケストラを率いた。解散後、彼は自身の「ラージ・オーケストラ・ヴィリー・シュティヒ」を設立し、そこでさらなる録音を制作した。フランツ・アンドレ(1893-1975)はベルギー生まれのヴァイオリニスト兼指揮者。1923 年にラジオ・ベルギーの創設に参加し、1930 年に国立ラジオ放送協会(INR) が設立され首席指揮者となる。ヴィリー・シュティヒはベルギーとの故郷に近いフライブルクで活動していたので、フランツ・アンドレからの招聘を受けたのだろう。ダンス音楽の経験者としての経験が買われ、この共演が実現したと思われる。何方も米国人ではないが、ジャジーな雰囲気がよく出ていて、当時の欧州及びドイツ圏におけるダンス音楽のレベルの高さが窺える録音である。
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