商品コード:1344-040p[COLUMBIA] C.アラウ(pf)/ ベートーヴェン:Pf協奏曲4番
商品コード: 1344-040p
商品詳細:アラウはベートーヴェンPf協全集を3回録音した。これが最初の1955年、ガリエラ/フィルハーモニアo.とのモノラル録音。次のPhilipsからステレオ全集(ハイティンク)になるのでそれがよく知られている。因みに3回目はETERNA(デイヴィス/ドレスデンsk)へのデジタル録音。初回では1/3/4番はモノラル録音。3年後の1958年に残り4曲がステレオで録音されて初回全集となった。従って、全集的繋がりは希薄。4番に限らず初回録音が最も良い。静と動、明と暗が明確に弾き分けられた気品のある演奏。ラウディオ・アラウ( 1903- 1991)はチリ・チリャンの生まれ。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、リストの高弟であるマルティン・クラウゼに師事(同門にエトヴィン・フィッシャーがいる)。ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。ヨーロッパでの名声を確立する。1925年には母校シュテルン音楽院の教授に就任。1927年にはジュネーブ国際ピアノ・コンクールに1位入賞。1935年からはベルリンでバッハとモーツァルトの全クラヴィーア曲の連続演奏会を開く。1941年、カーネギー・ホールにデビューし、翌年より本拠をアメリカに移す。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍(日本には1965年初来日)。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。1941年から米国RCAにSP録音を開始する。1947年頃から米COLUMBIAに移籍し、1952年頃までSP/LPに録音を残した。多彩なレパートリーを持ち、PHILIPSへ移籍する以前にかなりの数の録音を残した。英COLUMBIAヘは1955年頃から録音を開始、1962年頃までに15点前後のLPがあると思われる。これもその一つ。ロマンチックな芸風で派手さはなくとも味わい深いスタイルで世界中にファンが多い。ドイツ・ロマン派も得意としており、英COLUMBIA録音には特にその傾向が表れている。噛めば噛むほどに味わいの増すピアニストとして知られる。逆にモーツァルトなどの機敏さが要求される作品は得意ではないようである。アルチェオ・ガリエラ(1910-1996)はイタリア・ミラノで生まれ、パルマ音楽院の教授だった父親から音楽の手ほどきを受けた後、生地の音楽院でピアノ、オルガンと作曲を学んだ。1932年から母校で教鞭を執っていたが、1941年に指揮者に転向し、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団を指揮してデビューを飾り、ミラノ・スカラ座などでも活躍した。第二次世界大戦が勃発してからはスイスに亡命し、1945年にルツェルン音楽祭への出場を皮切りに演奏活動を再開した。1957年にはフェニーチェ座の指揮者となり、1960年まで務めた。1964年にはストラスブール市立管弦楽団の首席指揮者となり、1972年までその任にあった。ブレシアにて死去。出来たばかりのフィルハーモニア管弦楽団を指揮して、英COLUMBIAにはかなり多くの録音を残した。日本では「伴奏」指揮者のように思われているが、職人気質の地味なスタイルを持った指揮者。個性で目立つことは少ないが、どんな曲でも水準以上に仕上げ、指揮者の存在が消えるような不思議な上手さを持った指揮者であった。出来たばかりの頃からフィルハーモニアo.を沢山振っている。プロデューサーであるウォルター・レッグからの信頼が厚かったと思われる。協奏曲の伴奏録音が多いのは事実だが、一流の指揮者でなければ決して務まる仕事ではない。ガリエラは戦禍を逃れスイスに亡命した際にルツェルン音楽祭で成功を収め、レッグなどの目に留まる事になる。役者では主演は出来ずとも、その人なしには作品が成立しない脇役の大御所が必ず存在するものである。ガリエラはそう言った名脇役をEMIで担った大御所であった。
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