商品コード:1383-041t[SUPRAPHON] P.クレツキ / ベートーヴェン:交響曲3番Op.55「英雄」
商品コード: 1383-041t
商品詳細:パウル・クレツキは1900年ユダヤ人としてポーランドに生れる。ナチスを逃れ、'50年代から英国リバプールpo.の首席として活躍。EMIのウォルター・レッグが彼に目をつけ、HMV社にASDで録音を残した。その彼が'60年代('64~8年?)。何故、SUP社にチェコpo.とのベートーヴェン全集を残したかは謎である。チェコpo.が高い評価を下したということか?! 三角ステで聴く全集は、決して他レーベルに見劣りするレベルではない。端正で節度があり、豊かなプレゼンスを得られるオーディオ・ファイル!パウル・クレツキ(1900-1973)はポーランド生まれのユダヤ系指揮者。1921年にベルリンに留学した。1933年にイタリアに行くが、ファシスト政権の反ユダヤ主義政策のためにソ連に逃れる。しかし今度は1936年にスターリンの大粛清を逃れて、スイスへの亡命を余儀なくされた。1950年代に入ると英国に定住し、英国HMVグループの録音に多く参加した。1954年-1955年ロイヤル・リヴァプールpo.の音楽監督を務めた。ポストにはほとんど恵まれなかったが録音は非常に多く、全て客演となる。チェコ人ではないがSUPRAPHONで初めて一人指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を1964年~1968年にかけて録音した。あまり知られていないがエルネスト・アンセルメがスイス・ロマンド管弦楽団を1967年に勇退すると、後任の首席指揮者となったのがパウル・クレツキであった。クレツキは1967-1970まで務め、ヴォルフガング・サヴァリッシュに譲った。天下のHis Master's Voiceに多くの実績を残した指揮者である点は再評価されてしかるべきだろう。作曲家としてもフルトヴェングラーに認められるほどの成功を収めた。フルトヴェングラーは、クレツキを弟子として自邸に住まわせたほか、楽譜出版のブライトコップフ・ウント・ヘルテル社やジムロック社に推薦、更にベルリン・フィルを指揮させたりするなど非常に親しい関係にあったという。また1952-1955年までイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めている。1973年ロイヤル・リヴァプール・フィルとのリハーサル中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。録音は驚く程多く、多岐にわたる職人的指揮者であった。プロコフィエフのような各声部が巧みに交錯したフォルムの曲も自身が作曲家である点を生かし、巧みな演奏を行っている。フィルハーモニアo.とはかなり多くの録音を行っていて、個性でアピールするタイプの指揮者ではない。逆に何でもこなせる職人的気質の指揮者。録音当時のチェコ・フィルはアンチェルが首席指揮者であった。何故SUPRAPHONがベートーヴェン交響曲全集という大プロジェクトをチェコ人ではない指揮者に客演で任せたのだろう?西側の一流楽団は既にベートーヴェン全集の録音を次々に完成させてていて、チェコ・フィルでも一人指揮者による全集録音を考えていた。アンチェルではなく完全な部外者であるクレツキを選んだのはチェコ・フィルを国際市場に打ち出す為、ドイツ系レパートリーに強いクレツキを客演に迎えた。ノイマンには能力的にもタイミング的にも尚早であった。クレツキは西側の指揮者であり、この全集を西側市場に売り出そうと画策したSUPRAPHONにとってEMIにも録音の多かったクレツキは適役であったということだろう。アンチェルのようなチェコ人指揮者は自国作品のイメージアップの為に国際的な「チェコ音楽の顔」として温存し、ドイツ作品は国外の西側指揮者で--というSUPRAPHONの戦略が窺える。民族音楽=自前の指揮者(アンチェル、ノイマン)で固める。国際的名曲=西側で売れる外国巨匠を招いて権威付けする。この二本立ての大きな方針が見えた。実際この録音はEurodisc、VOLOIS等からも発売され、「知る人ぞ知る良質な全集」として評価された。
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